ひかり協会設立の経過と事業の特徴
1955年(昭和30年)に起こった森永ミルク中毒事件は、森永ドライミルクにひ素等の有害物質が混入し、1万数千名の被害児をつくった、過去に類例のない痛ましい事件でした。
子供を救い守るため親たちは、長く苦しい運動の結果、国(厚生労働省(事件当時は厚生省))、「守る会」、森永乳業の三者による話し合いがすすめられ、1973年(昭和48年)に「三者会談確認書」が、三者の間で成立しました。
ひかり協会は、1974年(昭和49年)4月に、三者会談における合意を基盤に、全被害者の恒久的救済を図るため、設立されました。
ひかり協会の目的と事業
ひかり協会は、1974年(昭和49年)に、厚生省(現、厚生労働省)の認可を受けて設立された公益法人で、森永ひ素ミルク中毒事件被害者のための救済事業を行っています。
その目的は、被害者の救済のための事業及び調査・研究その他の事業を行うとともに、公衆衛生及び社会福祉の向上に資することとし、被害者の継続的な健康管理や生活の保障・援助、自立生活の促進など、総合的な相談事業を行っています。
ひかり協会の組織と運営
ひかり協会は、厚生省(現、厚生労働省)、森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会(「守る会」)、森永乳業の三者会談確認書に基づいて財団法人として設立され、その後、2006年6月に公布された公益法人制度改革関連法に基づき認定された公益財団法人です。
その運営は定款にもとづき行われ、毎年度の事業に要する資金は「三者会談確認書」により全て森永乳業が負担しています。
≪ひかり協会へのアクセス≫
森永ひ素ミルク中毒事件
1955年(昭和30年)、森永乳業徳島工場で生産された粉乳の中に、大量のひ素化合物が混入し、事件は発生しました。
当時の被害児は12,131名、その内死亡者130名という、世界でも例のない大規模な乳児の集団中毒事件でした。
親たちが結集して森永乳業に原状回復と補償を求めたのに対し、厚生省は「五人委員会」を設置し事件の解決をはかりました。
その結果、ほとんどが全快の判定を受け、事件は医学的にも社会的にも一応落着したかのようにみられ、1974年(昭和49年)にひかり協会が設立されるまで、被害児たちは放置されてしまったのです。
被害者の実態
被害者数は、13,457名(2021年3月末現在)です。
森永ひ素ミルク被害者集団の医学的特徴は、脳性麻痺、知的発達障害、てんかん、脳波異常、精神障害等の中枢神経系の異常が多いこと、ひ素中毒特有の皮膚変化である点状白斑とひ素角化症が検診受診者の2~7%に存在すること、いろいろの身体的愁訴をもつ被害者が多いことです。
障害のある被害者には、知的発達障害が最も多く、肢体障害、精神障害、てんかんの順になり、重複障害が多いことも特徴です。